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2006年11月11日 (土)

続 浅野弥衛語録

Dscf3227Dscf3238Dscf3261Dscf3259現代美術作家、浅野弥衛を知ったのは、今から6〜7年程前。郷里の知人宅に伺った際、この展覧会を終えてすぐ亡くなられたという三重県立美術館で開催された氏の図録を見せもらいたのがきっかけでした。当時、美術館に展示されていたモノクロの抽象絵画(写真右・三重県立美術館展覧会、図録の表紙にもなっているシリーズ、田を想起させるもの)がハガキサイズくらいで10万、美術館でしばらく悩みあきらめたという知人の言葉も鮮明に憶えています。私なら無理してでも買ったかもしれない、と思いつつ、知人の話を脇目に図録の中にある世界にものすごい勢いで引き込まれていました。こんないい絵を描く、モダンな画家が鈴鹿市の神戸(かんべ)にいたなんて(没1〜2年後のこと)。
それから、もう在庫がないという県立美術館の図録をあちこち問い合わせたり、思い出した時にチェックしたりと気長に構えていたものの、今年に入ってから、東京神田の古本街の一角にある美術書店で見つけ(見つけたときは飛び上がるほど嬉しかった)、とうとう念願叶って手に入れることができたのでした。

先日三重県神戸小学校で行われた、没後10年記念、現代美術作家 「浅野弥衛展」。
母校や生家での展示という、作家の生まれた土地での回顧展は、土着性とともに風土が感じられ、そこかしこに作家の気配も感じられるような気さえして、作家を知ってまだわずかな私でも胸に込み上げるものがありました。大好きな現代美術をこんなに身近に感じることができたという喜びもあり、心に残るとてもいい展覧会だったので、いまだカタログをみては余韻に浸っています。
 
絵が素晴らしいのは言うまでもないが、やはり作家の次女である文筆家の美子さんや親族が、作家を語る思い出話がいい。
当時一枚も売れなかった時期もあった絵を、今は親族が何十倍にも、あるものは何百倍以上もの高値になってしまったものの中から、買い戻しているというのが涙ぐましい。もちろん、手の届く範囲のものでしか帰還を果たす事はできないらしく、それでも作家が生きていたら「なんでそんなお金(大金)を払って買うんとんのや」って言うだろうと親族が話されていたのが胸に込み上げてきました。
生家のアトリエ脇にある氏の御仏壇の脇に立てかけられたイーゼルに、親族の買い戻した蟹のパステル画が飾ってあったのが脳裏に焼き付いています。

「今度の個展も前の三人展も、一枚も売れず、全機無事帰還です。」
「市の清掃係には世話になっています。私は毎日本当によく絵を描きます。それで昔の絵から次々追い出さなくてはなりません。毎年清掃車に来て貰い、ごみ焼場まで捨てに行って貰ってますの。」

「日本人でなければできない、日本の文化風土から生まれた抽象を確立したい。」

「作品は 作品が語る以上のものでも以下のものでもない。」

/銀の光輝 浅野弥衛展 「浅野弥衛語録」より

トークショーの終わりに聴衆者の一人が生前の思い出を話されていた。版画作品のなかでの、有名な、卵シリーズについて、あの作品をもっと創っていただけないかとの問いかけに、
「あれのう、もう描き方忘れてしもうたのう。」とつぶやいたという逸話。これも良かった。


先日のブログにも書いた、夕日を見て感動してる弥衛、「昨日のと変わらへんやないの」とこたえる次女の美子さんに、「そんなつまらんこという人間に育てた覚えはない」という話によく似た話。

 『父は稲田の中の農道を自転車で走るのが好きだった。か細い早苗の間を初夏の風が吹き抜ける頃と、切り株の整然と、点々と並ぶ中に藁の山が所々に立つ時を好んだ。とりわけ秋は陽が落ちてからも散歩に出て行くことがあった。父の自転車の前に取り付けた腰掛けに坐って、歩行の時とは別物のように速く流れる景色の中にいることは、子供のわたしが最も嬉しかった御褒美の一つだった。その日、東の空に出たばかりの月は、夏の名残りか、橙色に潤んでいた。
─おとう、お月さん─
─そやな、お月さんが出たな─
─金魚色しとる─
─金魚色とは、よう言うた。ほんとにあれは金魚色や。お前は誰の子や─
─おとうの子─
─そうやろ。もういっぺん言うてみ。お前は誰の子や─
─おとうの子─ 
 利口だとか、賢いとかは口にしなかったし、頭を撫でるわけでもなかったが、父が心から喜んでいるのがよく解った。中略。聞き分けよく、おとなしく行儀よくしているよりもっと、父がわたしを好きになってくれる事があるのを、わたしがはっきりと意識した最初の日であった。
 父は独りで誰とも喋らずにいるのが何より嫌いだったから、子供の相手もよくしてくれた。しかし、子供に合わせるとか、子供を遊ばせるのではなく、どこまでも自分の流儀を押し通した。中略
 絵を描きながらも父は、ひっきりなしに喋った。時には無言でキャンバスに向かう時間もあったが、その前に必ず「ここはむつかしいとこやで黙るでな」と断わりを入れるのだった。父の言う、むつかしいとこ、は下地塗りの最後の一撫でか、キャンバスから紙を一息に剥がす作業にだいたい決まっていて、キャンバスを鉄筆などで引っ掻く時は、背中を向けながら話し続ける。
アトリエを出て行こうとすると「なんにも邪魔やあらへんに。居っても構わんに」という独特の引留め方をした。それは、わたしが高校生になり、父に反抗するようになってからも少しも変わらず、「ここが明るいで、ここで本読みん」とか「アトリエが一番あったかいに」「ええ絵が出来かけとる。ちょっとまあ、見てかんか」と誘った。これはわたしに対してだけでなく、殆んどすべての人に、とも言える父の態度で、夏、アトリエの窓に簾を掛けると、簾越しに、通りを行く人を呼び止めた。冬は冬で、煙草を買いに来た客にも、アトリエで暖をとっていくよう勧めたことが度々あった。
 父は大人でも、おとなでもなかった。人に構われることの大好きな子供のまま年を重ねた。幾つになっても、その日、開けたばかりの目で、人も物も見ていた。巨視的風格とは無縁であったが、微視のおかしみとやさしさは失わなかった。わたしの育て方もそうだった。わたしを形造る感情の粒子のつぶつぶに映る自分の血をいつくしんだ。
─おとう、桜はどこにあってもきれいやな。線路脇でもお墓でも─
─そうや。名所でも山の一本でも。こんな性格の花は無い。桜だけや─
─そやけど、ひまわりも、ちょっと似とる。どんな場所でも似合う─
─よう言うた。お前は誰の子や─
─おとうの子─

   /とりとめもなく 浅野美子 ひるういんどno.54(1996.7)より』

ほとんど全ての人に、アトリエに入っていくよう呼び止めたというのがなんともかわいらしい。
そういえば、母が話していたが、実家近所の壁塗りのおっちゃんが生前弥衛さん宅の土壁を塗りに行かれて、弥衛さんに「この絵、あんたどう思う?」などと普通に、よく、感想を求められたそう。

この文章、ほんとうにいいなと何回も読み返す。
しゃれたことを言うのは、お行儀よくしてるより難しいと思うのです。


*写真左上:10本の線のみで構成された作品 下:カタログ表紙にもなっている生涯手許に置いて自ら最高傑作と語った作品 /銀の光輝 浅野弥衛展カタログより 
右:三重県立美術館で行われた展覧会カタログ。


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