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2007年8月 5日 (日)

目の前に生きていてくれること

070804_145001070804_161701昨日は「水になった村」の公開日。初回の舞台挨拶はその映画の中に出演されてた徳山村のおばあちゃん、廣瀬ゆきゑさんが上京されていて監督と対談。写真は劇場ではなく、上の階で大西監督の徳山村を追った写真が展示されてる部屋の模様。観る毎に発見がある。

こうやって映像って観るんだって思った。ジョンカサヴエテスの生誕100年のとき六本木のシネ・ヴィヴァンに連日カサヴェテスの異なる全作品を観るために通っていたことがあたけど、同じ映画を何度も繰り返して観に行くことはしたことがない。カサヴェテスの映画は劇映画だけど自身の愛する妻、ジーナ・ローランズ、家族を題材に撮り続けてたその世界はそういえば私にはドキュメント映画に見えた。
今日の映画でまた発見したことはいくつかあったが、映画が終わったあと、今はそこに出演してたほとんどのジジババが他界された中、今でも元気に生きていてくださる88歳のおばあちゃんが舞台に上がられたときは流石に野放しに涙が流れた。ただそこに立っていてくれるだけで、ぬぐってもぬぐってもとめどもなく涙が頬をつたう。「ありがとう」。
今まで映像のなかでこらえていたこみあげていたものが一気に流れ出したみたいに。徳山村が水に沈むまぎりぎりまで、国からの補助金で建った徳山村豪邸といわれる街にたてられた家々には住まず、自分の生まれ育った村、その土地に最後までねばって暮らした映像の中のおばあちゃんが、今、目の前にいてくれること。それは映像というドキュメントではない。目の前の現実。生きてきてくれて有難うといいたくなるくらい、生きているってことがこんなにすごいんだって思わせてくれるくらいに、目の前の現実が奇跡でないことに感動した。

感動のドキュメント映像をどれだけ繰り返し見ても、目の前の現実にはかなわないって思った。
それは映画館の中にいた人たちも同じようで、みんなの感動がひとつになったみたいに、前の人も隣の人も、いっせいに涙をぬぐっていた様子からも感じられた。自身が生まれ育った村が、日本一のダムという開発によって今は水に沈んでしまった。監督に映画をみた感想を問われたおばあちゃんは、「もうわしはボケてしまって、みんなが求められるようなことよう話せへんの。」とたどたどしく綴りつつも、村であった街に暮らす人からみると不便にみえるような暮らしの日々の思い出を、それは現実にあった本当のことです、そんな暮らしが私たちの村の暮らしでした、と丁寧に大切に話して下さりました。やっぱり行ってよかった。あのおばあちゃんはまた、今は徳山村ではない岐阜県の家に帰っていかれたけど、こんなに遠い東京にきて下さってみんなの前に姿をみせてくれたことが有り難かった。もうほんと、たくさんのことがこのドキュメント映画のなかには溢れている。15年もの間、徳山村のジジババの生きる姿を撮り続けてくれた大西監督に、感謝したい。

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