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2008年4月27日 (日)

連続射殺犯の文学 ー 読んで胸に響くかどうか

Dscf7138図書館に行く途中の民家の庭先に咲く淡い黄色のミニバラがとてもきれい。

永山則夫について調べていると、つく弁護士(弁護士の思想と性格)によって裁判の景色、事件のメッセージ性が変わるのに驚く。永山則夫が年賀状を毎年書き続けて、「今付いてる弁護士を解任するから、あなたが私の弁護人になってもいい。条件として100万のカンパ金を持参すること」と名指しして就任させた遠藤誠弁護士という人に興味が行く。最後には「則夫ちゃん」と呼ぶ程、弁護人と被告を超えた仲となり、永山被告の死刑後遺言通り故郷のオホーツク海に散骨し、死後の印税遺産を貧しいペルーの子供たちに寄付するべく動かれたという。

それで、この遠藤誠弁護士の人柄がまたすごいのだけど、それとは別に担当していた帝銀事件の平沢貞通死刑囚に(サリン事件の青山弁護士の弁護もしていた)関する記事を読んでて、ますますこの国の矛盾見える裁判のあり方、死刑制度廃止について考えさせられることになる。

永山則夫が新日本文学賞を受賞した獄中で書いた自伝的小説「木橋」の巻末にある解説に、審査員をした小説家の佐木隆三の死刑制度について書かれていた文面が心に響く。木隆三は永山被告に死刑判決が下ると分かった日、東京にいたくないと、旅に出たと言う。旅先でいくら酒を飲めど酔えなかったと解説に書いている。作品についての解説に、解説云々よりも、死刑制度に対して多くは語られていた。また連続殺人犯の文学、文学の果たす役割について。

朝日新聞の声蘭に永山被告の死刑判決に対し、最高裁判決を支持する投稿55歳の女性からの投稿からの引用---
「天、人ともに許されざれるものとして、死刑はやむをえないと思う」「世界の動きは確かに死刑制度の廃止に向かっていよう。ならば、殺された声なき声を聞く立場の側も、同じ様に考えなければ公正ではない。永山被告の文学を高く評価し、その特異な作品が死刑という国家の裁決で中断されることを惜しむ声も分かるが、文学はそれほど万人にとって必要か、文学はそんなに特権があるのか」

これに対して文学賞に推薦し、永山被告を小説家として世に送り出した審査員、小説家の佐木隆三の投稿より引用---
「永山則夫は、81年8月の東京高裁判決で死刑から無期に減刑され、「生きる」ことの尊さを知って小説を書く気になったのです。それは同時に、自分の犯した罪の深さを心の底で感じ取ったからだろ思います。いったい自分は何者なのか。どのように育ってきたのか。それを問い続けているのが、「木橋」以来の彼の作品です。自分を見つめる鏡として、文学と向かい合っているようです。文学は万人にとって必要なものではないし、特権を有するものではありません。ただ、あるとき必要になって、文学によって「生きること」の重みを知る人もいるのです。むろん『4人もの生命を理不尽に奪った』者が『生きる尊さ』を知ったからといって、死んだ人は生き返りません。だからと言って、国家が殺して済むのでしょうか。わたしは法廷で『早く死刑にしろ』とうそぶく複数の被告人を見ています。自分の命と引き換えなら何人殺しても同じ・・・という理屈です。こんな傲慢を許して死を与えるのが、国家の役目とは思えません。犯した罪の深さを知らしめ、人間の心を取り戻させるのが真の教育刑でしょう。死刑相当の被告人に、『絶対に仮釈放しない無期懲役』を適用するとか、因果応報を与える知恵が欲しいと思います。とはいえ「木橋」の作者の死刑は確定します。今となっては、生ある限り書き続けることを期待するしかありません。しょせん文学はそれ以上でも以下でもないのです」


「文学はそれほど万人にとって必要か、文学はそんなに特権があるのか」という問い対して、文学の役割と永山被告の出会いについてひととおり述べ、「文学はそれ以上でも以下でもない」とのくくりが、死刑判決への見解とともに心に響く。 それ以上でも以下でもない文学が、万人に必要ではなくても、永山被告にとっては生きる意味を見いだすための、なくてはならないものだった。

文学と出会い、永山被告は変わった。


最後に、審査員である小説家 佐木隆三は、話題性(から選出したと評されもした)から永山被告の文学を選出したのではない、文学に関しては『読んで胸に響くかどうか』それが全てだと言っている。また、『選考委員をして、一人の小説家を世に送り出したことを誇りに思っている』とも。

「木橋」は、胸に響くほどに強烈な作品だった。が、それ以上に死刑制度について書かれた小説家 佐木隆三の所見と、この一文に出会えたことが、私には読む価値があった。

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コメント

>果たして文学はなにほどの価値、意義があるのか。
それを問われる裁判でもあったのですね。

まさにそうなんです。
文学の存在と人間(思考、頭脳というものを持った生き物)との関係について、ともいうような重要な課題について掘り下げた裁判だったのですよね。
犯罪と思考に文学は客観的に自己を掘り下げるために、なくてはならない時があるんだと思います。事実、獄中での手記は実にたくさんありますよね。

佐木隆三は、死刑判決が決まった時の落胆は筆舌にし難いほどだったといいます。
それくらい文学に出会ってからの永山則夫の表現に光をみたようです。
そして国家の下す死刑制度に対して行き場のない矛盾、やるせなさにうちひしがれたようです。一人の作家を終わらせる無念さにも。

投稿: やだ | 2008年4月28日 (月) 23:24

一連の永山則夫事件の矢田さんの考察はとても興味深く周囲のこの事件に対する捉え方についても一石を投じるくらいの筆力を感じます。
文学の存在意義についての佐木隆三氏の文章は貴重ですね。果たして文学はなにほどの価値、意義があるのか。
それを問われる裁判でもあったのですね。それぞれの立場からしかものは言えないものの、
ただ、あるとき必要になって、文学によって「生きること」の重みを知る人もいるのです。
このくだりは、佐木隆三氏でなければすっと出てこないずしりと重い言葉だと思います。
言葉を知らないと自分を掘り下げることが出来ない、どうしてこういうことになったのかと考えることも出来ない。「動機なき、理由なき犯行」として世間を震撼させた被告の声(文章)をかなうことならば罪を償う意味でも聞き続けたかったといまさらに思います。

投稿: 佐々木 雅浩 | 2008年4月28日 (月) 22:41

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