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2008年4月21日 (月)

描いていて、描いていない

Dscf7115*ベランダから見える桜の木。こないだ散ったばかりなのにもうこんなに緑が茂っている。

いい絵を見ると「うまい」って私はよく表現する。ここで言う「うまい」は巧みというより、心が揺さぶられる「いい」の意味が多い。こないだも絵の前で「めっちゃ、うまい」って見入っていたら、ギャラリーの人が、精神障害者の人の絵と教えてれた。まさか精神障害者の方が描いた絵には見えなかった。それは大人特有の計算が入った絵に思えた。どうやら指導者がいて作者の能力を最大限に引き出しデザインし描かせたものらしい。そういえば現代陶芸家の八木一夫が京都の精神障害者の学園の子供らに創作の指導していたのは有名だが、能力を上手に引き出し(コーディネイト)てたからこそあのような素晴らしい作品等が生まれたと聴いたことがある。指導あってのものだと。ふ〜む、私が今立ち止まってるこの絵等も素晴らしいデザイン、見せ方、指導の絵だった。大人が創ったように計算された所が効果的になってる。ほんとにうまい(いい)。アウトサイダーアート特有の描き手の本能も見える。
帰り道思う、なんであんなにアウトサイダーの絵は、その絵の前から動けなくなるんだろう。堂々回りの感動に陥る。本能が爆発してる、噴火している。あの人達の絵の最大の魅力は、描いていて、描いていないことだ。
これは、天というか自分の声にすべて委ね、再現するのみの行為に思える。

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コメント

宮城まり子さんはまさにそうですね。指導者ですよね。宮城さんの子供を観る絵を観る目はすご〜〜〜くいいですよね。優しく厳しく大きい。アウトサイダーアートは指導者によっていかようにも開花するようです。私はアウトサイダーが大好物です。ジミー大西の絵も一番最初に大学卒業したてのころ小さい画廊で買いました。余談ですが、私のMのプロフィールにある好きなアート=アートブリュとあるのも、アウトサイダーのことです。

投稿: やだ | 2008年4月21日 (月) 22:51

アウトサイダーアートという言葉は初めて目にしました。日記を拝見して思い出したのが「ねむの木学園」の生徒さんが描いた絵画でした。宮城まり子園長はつとに有名ですが、生徒に対し初めは何でも描きたいのを描いてごらんなさい、と。そして徐々にじゃあ次は○○をイメージしたのを描いてみて。そうしたやりとりをしていきながら知らず知らず生徒さんは自ら次はこういうのを描きたいと自己主張するようになるのだそうです。
あくまで生徒自身の自己発露のツールとしての絵画。
強制でなく遣り甲斐をもたせる、失敗して当たり前、何も気にしなくていい。少し大袈裟ですが、そういう温かい思いやりの下で描かれた絵画には愛情の籠った言うに言えない、感動という言葉が空々しくなるほど天衣無縫で世界を信じている生徒さんの心をみている気分になりました。

投稿: 佐々木 雅浩 | 2008年4月21日 (月) 22:13

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