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2011年1月18日 (火)

意味の前に無意味がありました by 谷川俊太郎

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ただ今ギャラリー福果で開催中、「元永定正」という芸術家の事が知りたくなって、目黒図書館に10冊予約した絵本の準備ができたということで、借りてきました。
その中で、とりわけ私が気にいった「ちんろろきしし」という絵本があります。その本のあとがきの、詩人・谷川俊太郎さんの言葉がいい。谷川俊太郎さんの文章には、ほとほと癒される事が多い。そして谷川俊太郎さんと言えば佐野洋子さん、「100万回生きたねこ」の原作者でもある絵本作家の佐野洋子さんが去年他界された事もつい最近知ってショックだった。そんな折に、元永定正さんの作品を通じて谷川さんの息吹が聞こえるような文章に出会い、しみじみとこの文章に思いを巡らせ拝読する。あまりにも良かったので、ゆっくりと感じながら読み返しました。印にこにも貼付けてみました。

谷川俊太郎さんのあとがき結末にある、「それは元永さんが自然児だということを意味しません。この本は自然に生まれたわけではなく、その方法も技術も画家としての元永さんの若いころから持続している意識と意志とに支えられています。」というところがとても印象的で、特に「若いころから持続している意識と意志に支えられている」というところに頷き、感銘を受けました。

無意識や偶然にまかせたものではなく、努力によって培われた技術という確固たる土台があった上での作品であるということ、つまりプロフェッショナルということですよね。

ところで、「元永定正」さんの絵本「ちんろろきしし」を見ていて、谷川俊太郎さんの文章を読んでいて、前衛芸術集団「具体」と、前衛書人団の「独立書人団」、この二つの団体の活動(思想)は通じるところが多いと発見しました。(私が勝手に感じる真の芸術というところですがねー。)

まあ、詩人・谷川俊太郎さんの言葉同様、ほんまに「元永定正」さんの作品、にじみ出る生き様に触れるにつけ、ゾクゾクして仕様がありません。

以下「ちんろろきしし」あとがきより引用

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   生命の源

            谷川 俊太郎

 意味の前に無意味がありました。秩序の前に混沌がありました。自然は多分そういうふうに生まれてきたのです。無意味が怖いから、混沌が不安だから、人間は自然を意味づけ管理して、人間にとって心地よい秩序を確立しようとします。でもどんなに意味を求めても意味からこぼれ落ちるものがある、どんなに秩序を打ち立てようとしても混沌はなくならない。それは人間もまたロボットではなく自然の一部だからです。
 この本は元永定正というひとりの人間のうちに存在する自然から生まれました。ここにある絵も言葉も、自然のもつ形や色や鳴き声や物音と響き合っています。一体全体これは何なんだと問うとき、あなたは意味では割り切ることの出来ないこの世界の豊かさ、不思議さに触れているのです。この宇宙のすべてを創造した造物主とは比べられないとしても、元永さんは私たちよりもずっと造物主に近いところで、人間が意味づける以前の存在のイメージとその手触りを生み出しています。
 その謎めいた形や色や動きや文字の音は意味を持っていませんが、それゆえにこそ楽しく面白く美しい。人間の手がまだ触れていない無垢とでも言うべきもの、大人に毒される前の子どもの感性、この本はそういう生命の源へと私たちを連れて行ってくれます。私の好きなオシップ・マンデリシュタームの詩の一節を引用しましょう。

  海の泡のままでいてくれ、アフロディテよ、
  言葉よ 音楽に戻れ、
  心よ 心の表出を辱(は)づるがいい、
  生命の根源とひとつに融(と)けあったものよ!


   (詩集『石』より早川眞理訳・群像社刊)

 元永さんは人の形を借りた美の女神よりも、変幻自在な海の泡のほうに親しみを感じているようです。しかしそれは元永さんが自然児だということを意味しません。この本は自然に生まれたわけではなく、その方法も技術も画家としての元永さんの若いころから持続している意識と意志とに支えられています。この本を見て読んでいると、元永さんは人間社会が信じこんでいる意味と秩序に縛られない、自由な眼と耳を持っている「生きもの」なんだなあと痛感します。
2006年


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